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主の聖なる臨在に触れたイザヤは、自分の罪汚れに打ちのめされ、「ああ、私は、もうだめだ」と叫びます(6:5)。

しかしその自分の真実の姿を知って幻滅したイザヤは、神がその罪を取り去り贖われたことを知ります(6:7)。

そのように自分に絶望し、神の義により頼むしかないイザヤを、今度は神ご自身の召しによって遣わしてくださるのです。

神の恵みにより、一方的に罪を赦された者は、神の栄光のために創造され(イザヤ43:7)、神の栄誉を宣べ伝えるために(イザヤ43:21)生かされています。

神が遣わしてくださるなら、それは神の栄光のために遣わされるのであって、自分のためではないのです。

ですから遣わして下さる方に従って、「ここに、私がおります」と言って遣わされていけば、遣わす主が、ご自身の栄光をそこに現してくださるのです。

一人一人が遣わされた場所を受け取って出て行くときに、主は様々な荒野に聖霊の生ける水を流してくださるのです。

主の招きを受けた時には、遣わされる場所が荒野のようであっても、遣わされる方を信じて出て行きましょう。

主ご自身が、未熟な者をもご自身の栄光のために用いてくださいます。


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私たちの荒野のような場所に、主からの霊が注がれる時にその荒野は果樹園となり、それにとどまらず森のように緑豊かな場所となるのです。

聖霊の川が流れるところ、人知を越えた主のわざが起きてきます。

全国集会も久しぶりにもたれるこの月、思いっきり私たちの荒野を認めて、そこに上からの霊が注がれますように祈り求めましょう。

荒野を果樹園に変える力が私たちになくても大丈夫です。

聖霊がしてくださるから、私たちはその事実をやがて(すでに)見て、主への感謝の讃美をささげることになるのです。




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神のみこころは、すべての人が滅びから救われることです。

神はすべての人を、天国に招いてくださっているのです。

神は今も忍耐深く、悔い改めて神に立ち返る者が起こされることを願っておられます。

ただこの招きに応じればよいだけなのですが、多くの人は、この招きを価値なきものと見なして断ってしまうのです。

「見よ。わたしは新しいことをする」(イザヤ43:19)と、今年約束してくださった主は、新しい魂の救いに繋がる新しいことをしてくださる方です。

主のみこころを実現するために、主は先に救われた者たちをお用いになるのです。

神が望んでおられることを、私たちも同じ思いで望んでいきましょう。


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エゼキエルが見た聖なる神殿から流れる川の水は、死海の水さえも良い水に変えていきました。

聖霊の水が流れる所はどこででも、生物が生き、多くの魚がいるようになるのです。

死んだような者をも生かし、すべてのものを生かす聖霊の水が豊かに教会に、また一人一人に注がれますように祈りましょう。

枯れた骨にもいのちを与える主は、わたしたちをも聖霊の息吹によって生かしてくださいます(37:10) 淀んだ水を聖霊の川が押し流して、溢れるばかりのいのちの水で生かしてくださいます。

死にかけている魂に、聖霊の水が流れて生かされますように、さらに聖霊を求めていきましょう。



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十字架の死よりよみがえられたキリストの御名を崇めます。

死からの復活という、人間の限界を越えた出来事を、イエス様の弟子であったトマスでさえも疑いました。

イエス様は、そのようなトマスを信仰の脱落者として扱うことはなさらずに、むしろ「見ずに信じる」ようにと教え、励ましてくださいました。

復活のキリストに出会ったことで、トマスもその後何かある度に「まだ見ないけど、主の勝利を信じていこう」という信仰に変えられていったことでしょう。

今年、「見よ。わたしは新しいことをする」(イザヤ43:19)とおっしゃった主が、私たちの荒野に必ず道を設けてくださることを信じて祈り続けましょう。

信仰は、まだ見える形では実現していないことを、主がしてくださると信じて待ち望むものです(ヘブル11:1)




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神様は、真に頼るべき神がどなたかを私たちに知らせるために、あえて私たちを荒野に導かれることがあります。

苦しみの中で、曖昧になっていた信仰が正されていくのです。

また、荒野で主は優しく語りかけてくださるのです(ホセア2:14)。

バアルでなくても、主なる神以外のものに頼っていたこと、そして、それは決して助けにはならないことを知り、主なる神を仰ぐように変えられていくのです。

中途半端でいるくらいなら、思いっきりバアルにでも、自分を満たし助けると思えるものにでも、従ってみればいいのです。

やがて幻滅する時が必ずくるでしょう。

痛みを通して、どっちつかずの生ぬるい状態から、熱く主を求める者へと、主は私たちを導こうとしていてくださるのです(ヨハネ黙示録3:16〜20)



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主は今年、「見よ。わたしは新しい事をする」(イザヤ43:19)とおっしゃいました。

あたらしい事が始まる時に大切なのは、まず神への礼拝の姿勢が正されていくことです。

今月から二回礼拝が始まり、礼拝の雰囲気も少し変わるかもしれませんが、形や時間よりも、どのような態度で神を礼拝していくかが常に問われています。

礼拝は、神に自分の存在を生きた供え物として捧げていく積極的な行動です。

聖書で「礼拝を受ける」とは言われず、「礼拝をささげる」と言われています。

礼拝をささげることによって、確かに主の豊かな恵みを受けることになりますが、でも私たちは、聴衆でも観客でもなく、自分自身を捧げる礼拝者なのです。

自分自身を生きた供え物としてささげる礼拝こそ、「霊的な礼拝」なのです。

具体的に、自分を捧げるとはどういうことか…聖霊に聞きながら、実践していきましょう。

まずは、このみことばをしっかり心に留めて礼拝をささげることから始めましょう。  



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新年おめでとうございます。

久遠キリスト教会創立70年、また前牧師が召されて10年になる節目の年に、主は「見よ。

わたしは新しい事をする」のみことばを与えてくださいました。

「見よ」と言われる主のみわざに期待をしていきましょう。

主が働かれる時、荒野に道ができ、荒地に川が流れていきます。

「先の事どもを思い出すな」(18節)とあるように、今までを基準に考えてはいけないのです。

今まで荒野であったところも、主が新しくされるなら、生ける水の川が流れるところになるのです。

「新しい主のみわざに期待する年」として、主のしてくださることを見せていただきましょう。

今年の目標
@主がなさる新しいことに期待しよう。
A主から示されていることにチャレンジしていこう。
B荒野に主が道を設けてくださることを信じて、祈り続けよう。

あきらめかけていた祈りの課題、何年も祈り続けているのに答えが得られない出来事なども、もう一度主の約束に望みを置いて忍耐強く祈り求めていきましょう。



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