読者のご要望もあり、書籍「久遠基督教会五十年の歩み」よりの記事を随時掲載いたします。
これは1994年4月に刊行されたものです。

  
        久 遠 基 督 教 会 前 史 ()

 当時、同じ集会に集い、伝道を志しておられた高瀬正太郎兄と共に、上野の森で語り合ったある夜、人気なき西郷隆盛銅像の前にて、彼は心迫られ、思わず地にひれ伏し、天を仰ぎ熱烈なる献身の祈りを捧げたということを、後年高瀬兄の証言によっても知らされたのである。

 かくしてこの若い魂は、上京の折の願望とは全く変えられ、かつてはあざ笑い、排斥していたキリストの福音宣教の道へと大転換がなされ、武本先生にも励まして頂き、中島商店を辞して、神学校入学への準備を始めたのである。

 まず、当時、霊化集会の補教師をしておられた大久保忠臣師(ダバオ伝道もされた)宅の三畳間に寄宿し、親戚の瀬戸物商店から品物を預かり、大八車にのせ、分冊聖書と共に売り歩くという生活が始まったのである。重い車を引き歩きながら、生来無口な彼が、聖書を手にして語りかけ、品物を売りさばくという事は容易なことではなかったと思う。収入の乏しい体で辿りつく戸山ケ原の原っぱは彼にとって唯一の憩いの場であったと聞く。わずかに一、二本の焼き芋で飢えを満たしつつ、夕陽を仰いで彼は、何を思い、如何に祈った事であろうか。

 当時、日本神学校(現東京神学大学)が著名であったので彼もここを目指して受験準備をしたのだが力足らず、進路に行き詰まっていた時、神は別の道を備えて下さったのである。武本先生と親交あつき谷口茂寿牧師(本郷神の教会)が、新しく日本聖書学校を開校され、福音宣教の志のある者を養成されるとの事で、第一期生として受け入れて頂けることになったのである。と共に特別な計らいで教会堂脇の一室を提供して下さり、食住のお世話もして頂けるというすばらしい厚遇に与かることが出来たのは、ただただ主の一方的なお憐れみであると思わざるを得ない。

 しかし、彼の一大転換を知った郷里の人たちは、驚き、呆れ、とんでもない者になってしまったと噂をし、特に祖母はその決意を告げた彼にとりすがって、それだけはなってくれるなと泣きくどかれた時には、彼もさすがに言いようもない思いに迫られたのであったが、その肉親の絆と情を断ち切って、只ひたすら十字架の主を仰いで歩み出したのである。その折、ただ一人、義兄太田鉄雄のみは、この事を受けとめて、「しっかりやれよ」と励ましてくれた事を彼は生涯感謝していた。そしてこの義兄は晩年、彼の祈りのうちに平安な召天を与えられ、その妻である姉はまは、晩年にはっきり主を信じ御名に加えられたことはまことに感謝である。

 かくして谷口先生、露子夫人、お子様方の御厚遇の中で日本聖書学校での学び、教会での奉仕、下町方面の路傍伝道参加等の訓練の場や、平日の余暇をみては、教会学校生徒のための学習指導等々、彼にとってまことに希望に満ちた明るい生活が始められたのである。

 この頃、霊化集会の先輩、斉藤源重兄によって彼に結婚の話が持ち出された。相手は浦部おいよ()である。私も幼時に父が病没し、兄の開店のための招きによって、1922(大正11)5月、長野県小諸町から母と共に上京、浅草田中町に居住したが、翌年9月、かの関東大震災という希有の災害にて家屋倒壊全焼の無一物となり、多くの困難の中で成長期を過ごし上級学校進学も断念、思うに任せぬ日々を悶々として光を求めつつあった時、職場の先輩の導きで武本喜代蔵先生にお出会いし、活けるキリストを指し示され、より頼むべきお方はこの主以外なしと信じ、救い主として受け入れることができた。奇しくも二人は受洗日が同じであった。

 しかし、主にある兄姉としての交わりのみであって、教会が変わってからは、それすらも薄れていたのであるが、年長の兄弟の配慮と祈りの中でこの事が起こされたのであった。何のバックもなく、一人黙々として伝道への準備を続けている彼にふさわしい伴侶として、私の事が思われたと聞かされたが、とにかく、切々と、両者に対して年長の兄弟は御自分の思いを吐露されたのであった。この先輩の真実な愛の促しを受けて、二人とも、それぞれの場で主に向かい、祈りつつ問うて行ったのであったが、ちょうど、時は聖書学校の夏休みに入り、彼は名古屋の無牧の教会に遣わされ、慣れない教会奉仕の時として多忙でもあり、また自分を省みた時、現実の自分には何もなく、家庭を、結婚を願わないのではなく、そのことも祈りの課題とはなっていたが、いざ具体的に事が起こされてみると、それに応じられる何ものもない自分であると、祈っても考えても結論の出ないままに、時が過ぎた。しかし、貧乏伝道者の妻になることの決意の固かった私と共に、語り合い、祈りあって、ついに主の導きと確信し、婚約を決意したのである。

 二人はこの事をまず、武本先生の申し上げ、婚約式をお願いしたのであるが、喜んでは下さったものの、なお二人で祈って行くようにとの事で、若い者の一時的なものであってはと危惧されたのであろうか、婚約式はして頂けない事になった。二人は、かねてから藤井武先生の『聖書の結婚観』に深く傾倒しており、祈って受けとった時は、すでに結婚したと同じであるとの信仰において、たとい片方にどのような事態が起ころうとも、変わることのない決意を与えられていたので、斉藤兄と三人で、藤井先生の特愛されたという記念の世田谷にある一本杉の許にて、主の前で婚約を行なった。それは1933(昭和8)8月最後の日曜日の事である。二人は斉藤兄の導きと祈りの中で、いとも厳粛に神の臨在を覚えつつ、ただ主の御名に仕えていく家庭を与えて頂きたい。そのため二人心をあわせて祈り備えてゆきたいと願わされたのであった。この時の夕陽を忘れる事はできない。

 二人は、この時から婚約者として歩み出した。そして私も神の教会に転籍を許され、礼拝に出席し、日曜学校の手伝いをし、時には共に祈りの時を持ちながら、さらに、それぞれの場において結婚への準備をしたのである。

 彼は、日本聖書学校を卒業後、日本大学宗教科へ入学、高等専攻科卒業、宗教学士認許、続いて上智大学にてドイツ語を学ぶなど、すべて夜学での学びを続けていったのである。日大宗教科卒業記念のアルバムには、「真理に生き、真理に死なん」と記されており、彼の思いを知る事が出来る。さて、二人は1935年(昭和10)3月26日、本郷神の教会において、谷口茂寿先生の司式により挙式させて頂き、教会員諸兄姉と両方の親族、約五十名の祝福のうちに新しい歩み出しが始まったのである。

 そして、神様はこの二人の新しい生活のために、谷口先生を通して、彼にとってまことにふさわしい働き場を備えて下さったのである。当時、神の教会会員に、法律関係書籍出版の松華堂社長・横尾留治氏がおられ、氏の信仰によるビジョンとして、日本国民一般に理解しやすい聖書を出版したいと願われ、内村鑑三先生門下の諸先生と計り、「舊約聖書略註・新約聖書略註」が発刊される運びとなり、その編集事務、渉外、校正等の仕事を彼に与えて下さったのである。なんという感謝な出来事であったろうか。

 神田錦町にある松華堂書店の一室が“日英堂”として発足し、彼はその唯一の職員として週5日の勤務をし、時折にはYMCA会館において横尾社長や、執筆者の諸先生との打ち合わせがあり、また編集校正等の連絡のため、各先生方のお宅を訪問するなど、それらすべてを通し、若い彼にとってこの間に無教会の先生方から受けた影響は非常に大きくあったと思われる。聖書の一字一句の解釈の深奥を学ばせて頂けるというこの仕事は、後に独立伝道に携わろうとする者にとって、どんなに有り難い事であったか、主の奇しきお導きを思うのである。

 ここに執筆者諸先生のお名前を記して憶えたいと思う。

黒崎幸吉、塚本虎二、矢内原忠雄、石原兵永、畔上賢造、鈴木俊郎、伊藤祐之、金沢常雄、、藤本正高(敬称略、順不同)等。

                                −以下続く− 





ページの先頭に戻る