入院から召天まで
久遠基督教会五十年の歩み(17)

 常日頃、自分は講壇で倒れるのが本望である、と言って、医薬を拒否し、主の癒しを願い、またそれまで何度となくその体験を与えられて来たので、医師である磯部秀隆兄や猪狩友行兄も、委ねるしかなく、和氣兄姉がすすめに来られた時にも、入院受診に応じない丹羽であったが、主の時であるのか、その頃求道しておられた鈴木慎次郎兄が昵懇(じっこん)の間柄である日野原重明先生にお願いして、著名、御多忙な先生が夜間にこちらまで出向いて下さり、種々のお話を通して丹羽の心も開かれ、自分は頑固であったと認め、すべてを主と病院に明け渡すことが出来たのであった。

 1225日に一時帰宅を許されたクリスマス集会で「馬小屋にひれ伏して」と題してのメッセージをし、14名に洗礼を施したが、翌年のイースターには帰る事が出来ず、ベットでテープに吹き込んだものが届けられたのであった.

 1978年(昭和53年)331日午後7時半、私は病院に呼ばれた。日野原先生から、今の内に大切な事を話しておくように言われたとの事であった。

 声もかすれ、聞き取りにくい丹羽との対話は約30分位であったか。私はメモを手にして一言一句聞きもらさじと耳を傾けたのであった。「自分は何もしてこなかった。自分に帰する事は罪だけ。ただ主の十字架の御血潮を崇めるだけ。すべては主の憐れみの出来事である」、「集会は今3人の兄弟がそれぞれの賜物で助けあってやっていて下さるが、主になるのは」との私の問いに対して、「清雄君だ。三浦君、美川君が助けるように」。また、もしもの時にはとの問いには、「石田君にしてもらうように」。その他自分の生い立ちとか、家族への思いをポツリポツリ語ったのが、最後であって、翌日あたりからは、ほとんどまとまった会話は出来なくなったのである。

 かくして入院治療5ヶ月間にて、1978年(昭和53年)418日午前926分、丹羽(にわ)e之(としゆき)は、688ヶ月の生涯を閉じ、所を天に移したのである。病名は悪性リンパ線肉芽腫で、入院時、すでに末期であったとの事である。まことに往く所を知らずして出で立ち、御言葉によりたのみ、ただ主の導きのままに、何ものにも頼らず、歩み通した生涯であった。病床でも日々、「主はいま生きておられる」を歌い続けた、恵まれた生活であった。ハレルヤ!

  <いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって、御国を継がせることができるのです。>(使徒の働き2032節)


葬儀と記念会

 教会信徒あげての祈りの中に、丹羽は遂に天に移され、哀悼のうちにも、主の厳粛な御旨と受けとめ、418日の前々夜式から20日の葬儀に至るまで、すべてが導きの中に運ばれたのである。前夜式には小池辰雄先生から励ましのお言葉を頂き、葬儀は石田和男先生の司式によって行われ、石原兵永先生並びに数名の方々のお言葉を通して、独立伝道38年の歩みの上にあらわされた主の御栄光を拝させて頂き、さらに主の御再臨の日への望みを新たにされたのであった。

 521日の聖日の午後、1ヵ月の記念会が持たれ、主治医として5ヶ月見守って下さった日野原重明先生から、病床における丹羽の主に委ねきった様子を聞かせて頂き、さらに日野原先生はこの群れの10年後を期待していると語られた。また、石田先生は申命記348節から、突然指導者を失った群れのために励ましを与えて下さったのである。(続く)


                


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