読者のご要望もあり、書籍「久遠基督教会五十年の歩み」よりの記事を随時掲載いたします。
これは1994年4月に刊行されたものです。

  
                      久遠基督教会五十年の歩み(1)

 1940年(昭和15年)1月、杉林の前の小さな借家、その玄関に宗教結社阿佐谷独立基督集会の看板が掲げられ、六畳の座敷と三畳の板の間(書斎)を開き、彼の平常用いている学生机が講壇に替わり、座布団を並べ、畔上先生宅から頂いた数個の椅子を置いて、全く寺子屋式のささやかな集会が始まったのである。午前十時開会、賛美、祈祷、聖書講義、終わって手作りの昼食を共にし、膝つきあわせての語り合いが続き、夕暮れには武蔵野の面影濃き近辺を散策しつつの師弟の交わりがなされ、時には、また夕餉(ゆうげ)も共にするという有様で、みな実に真剣に求めていたので頼もしい、語らいの一つ一つの中でキリスト信仰が浸透して行ったと思う。

丹羽はこの群れに、「久遠聖書塾」と命名し、塾長丹羽e之以下十五名の住所録が残されている。またこの頃、石原聖書研究会での教友・大堀定一郎兄が加わり、その要望で、下谷在住の水洗美代姉宅での集会が開かれ、これが記念すべき家庭集会第一号である。

この頃、e之にとって一つの出来事があった。1942年(昭和17年)7月3日、神田YMCAにおいて聖書略注出版打ち合わせのため横尾社長はじめ、無教会諸先生との会合があり、丹羽も同席していたのであるが、突然飛び込んできた暴漢を阻止しようとした丹羽が殴打され転倒してしまったのである。相手は巨漢、こちらは貧弱な体、その上全くの無抵抗であり、黒崎先生が飛び出して取り押さえて下さったのであるが、その時、前歯は折れ、白絣(しろがすり)の着物は鮮血で染まり、一応手当を受けて帰宅したものの、その時から歯ぐき全体が弱り、やがて総入れ歯になる程に難儀したのであった。「主よ、これはどういうことですか」と問いかけている思いが、日記に記されていたが、彼にとっては主の御受難の一端と受け取れたと思われるのである。

e之は、日英堂での働きと、黒崎先生直接の校正等の仕事に当たりつつ、日曜毎の集会を持ち、伝導文書「聖徒」も発刊したが、これは六号で終わってしまった。看板を掲げての集会をするのに、わが家が戸閉め(留守)ではいけないということで、ついに私は十三年勤めた公社を退職し、今後のためにと洋裁学校に通い、三十歳の晩学一年の後、さっそく下請け仕事を始めたのである。

時は、日華事変(日中戦争)から戦時体制に移りつつあり、この小さな集会にも特高警察が来て、集会の内容を問いただすということもあったが、あまりに小さな集会であったためか、丹羽の話で納得できたのか、特に干渉を受けることもなく過ぎたのである。

しかし、学徒動員、応召と戦地に出て行き、ついに帰らぬ人となった兄弟もあり、丹羽自身にもついに徴用令が来たのであった。その前から在宅が多いということで、防空郡長を命ぜられ、町内の防空活動の指導者として訓練を受け、率先して行動していたのである。若い頃、愛用した香川服を国民服に仕立て直して着用、ゲートル姿で前の杉林へ入っては集中注水の練習を熱心にしていた時もあった。郡長として学徒出陣の送別会等もしなければならなかったが、神社参拝も宮城遙拝も行うことなく、それらがなされた事は、主の大きな御手が働いて下さったとしか思われない。彼にとってまことに感謝であったと思われる。

唯一の神を信ずる者として、真の平和を願いつつ、直接には戦争に参加せずとも、軍需工場に徴用されることは、どんなに心重いことであったか。しかし、主は憐れみをもって彼を徴用工の労務管理者の場において下さり、地方から集められた若者たちのため、よりよい環境で働けるようにと、誠意を込めてこれに当たることができ、心から感謝していたのである。三ヶ月間の寮生活から通勤になり、終戦まで続いたが、在宅の日曜日は共に集会を守り、不在の時には誰かが代わって集会は一度も休みなく続けられた。

その頃、いよいよ本土空襲の恐れのため、疎開者が続出して、この地域の表通りも空き家が出始めたのであった。私共二人は全然疎開の意思はなく、集会のため今より広い家を与えて頂きたいと願っていたところ、元医院の貸家があったので、さっそく交渉して転宅することが出来た。勿論家賃は倍以上になった訳だが、主は必要を備え給うと信じて行動に移した。

それは、1944年(昭和19年)4月の事である。十畳の診療室は集会室としてちょうどよく、その他に八畳、四畳半、二階六畳というもったいない程恵まれた住居である。すでに娘一枝を小学三年生の時に迎えており、他に集会の姉妹二人が同居、さらに3月10日の空襲で罹災した下谷の姉妹方を迎えてまた手狭になった時、隣の大きな家が家族疎開で一人になられたと聞き、一室借りたいと申し入れた事がきっかけで、取り替えて頂けるという幸いな道が開かれ、家主の承諾も得られ、1945年(昭和20年)4月に移り住む事になった。現在のこの場所である。神様は全く思いがけない方法で備えて下さっておられたのだと思う。

赤い屋根に、蔦のからまった、八畳の洋間と、八、六、三、三畳と二階に八、六畳の二間の建物で、九十坪の敷地には深紅の椿の大木もある。私共にとっては大邸宅である。主に大いなる感謝を捧げつつ、しかし、きびしい空襲下での日々を過ごしたのである。e之は、毎日工場に出かけ、私は大家族の食料調達と防空活動、内職の洋裁、その中でも日曜日は変わりなく集会が続けられた。

さらに4月13日に罹災した私の兄、息子を迎えた。5月下旬の関東地方最後の大空襲の折にも近所に投下された焼夷弾(しょういだん)が不発であったため、被害を受けることなく護られた。その後、広島、長崎の原爆投下という大惨事によって、ついに8月15日の敗戦を迎えたのである。

古今未曽有(みぞうう)の出来事に、皆一様にうちのめされたのであるが、私共、真(まこと)の神を拝する者にとって、これぞ主の審判なりと受けとめざるを得ず、また、この戦時体制下にあって、国策に添わずとして、獄に投ぜられ、迫害された多くの主にある先輩、教友諸氏の実状を知らされるにつれ、深い悔い改めと共に、今こそ、この敗戦日本の多くの人々の救いのために、小さい自分たちなりにますます宣教の熱意が高められ、共に祈りあったのである。                                   −以下続く−

                                  

                



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