新しい講堂の建設


読者のご要望もあり、書籍「久遠基督教会五十年の歩み」よりの記事を随時掲載いたします。
これは1994年4月に刊行されたものです。

 

久遠基督教会五十年の歩み(7)

 かくして、この新しい歩み出しが始まった時、主は事を起こして下さり、これまではどちらかというと聖書研究が重点的であった集会の中へ、具体的な問題を持って来られる魂が加わり、祈りも燃やされて行ったのである。

 武本先生の特別集会の時以外、広告も看板も掲げたことのない破れ塀の民家で行われている集会であったが、日曜日ともなると遠くから、近くから集まって来られる兄姉を迎えて集会室は次第に狭くなり、なんとか方法はないものかと大きな祈りの課題となったのである。そんなある日、1953年(昭和28年)5月の夕方、書斎8畳間の天井から吊り下げられていた電灯が落下し大騒ぎとなった。赤瓦のとんがり屋根全体をおおった蔦の葉はまことに見事であったが、長年月にわたって屋根裏までも根をのばし、腐食したためと考えられたが、ついにこうなってはと大改造を迫られ、全く資金の当てもないまま、思いきってこの部屋から道路に向かって10坪(2間×5間)の新しい講堂を建築する事に導かれたのである。

 こうして1018日には、フローリングの床の香も新しい講堂において新築感謝集会が行われ、午前は井上伊之助先生が「教会の使命」を、夜は石原兵永先生が「生活の合理化と信仰」を講演して下さったことはまことに感謝であった。そして次の聖日から毎回の集会が、祈祷会が、この場所において持たれるようになり、翌年2月14日には、黒崎幸吉先生に「真の教会のあり方」との御講話をして頂けて感謝であった。

 さらに10坪の講堂が与えられた事が用いられ、1954年(昭和29年)5月4日から久遠幼児学校が開始されたのである。長女・綾子は少人数でも、キリストの御名による幼児教育をしたいと願っていたので、手作りのブランコ1台とすべり台、椅子はミカン箱を張って絵を描いたものという、小さな無認可保育園のスタートであった。丹羽は1年に3回お話をする名目のみの校長、私はお母さん先生兼雑務係、綾子が全部の保育責任者として、毎日愛らしい幼児たちの声に包まれ、初年度の17名をはじめとして99名の子どもたちを11年間で送り出したのである。

                                                                                                  ―以下続く―



                                 

                


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