2月26日 |
礼拝メッセージ要約 主題:「キリストにとどまる]
ヨハネ15:1〜8 (田中殉伝道師)
イエス・キリストがご自分のことを指して「わたしはまことのぶどうの木です」と言われたくだりです。
■農夫である「父」(1節)
たとえ話のまず初めに「父」という存在が出てきます。ぶどうの木がそれだけで立っているということがないように、イエス様も父なる神様との関係を大切にされます。この世界を造られたお方(創1:1)と全く一つなのですから、その意味ではキリストもこの世界の創造主と言うことが出来ます(コロサイ1:16、ヨハネ1:1〜3)。イエス様はご自分が父なる神と全く一つであるとまで言われました(ヨハネ10:30)。イエス様につながるとは、この世界を造られ、私たちの罪に心を痛められ、私たちが滅びることを望まずに、悔い改めて生きることを望んでおられる神の御心につながることなのだということをまず確認しましょう。
■実を結ぶための剪定(2節から3節)
ぶどうの木は旧約聖書の時代から、たとえとしてよく用いられてきました。ぶどうはよい実りの象徴でしたから実を結ばない枝は農夫によって取り除かれます。しかし、実をみのらせるものは、もっと多くの実を結ぶために刈り込み(剪定)がなされます。よりよく実を実らせるために、絶妙なさじ加減で枝や葉が切り取られ、傷が付けられます。それによって栄養分が集中して大きな実を実らせることが出来るのです。実を結ぶものは「みな」(つまりほんの少しでも実を結ぶなら)、もっと多く実を結ぶために神様が剪定をなさいます。
■実とは
しかし、そもそも実とは何でしょうか。聖書全体を読むならば、イエス様につながることによって私たちに実るものとは、聖霊の実です。「聖潔に至る実」(ローマ6:22)や「御霊の実」(ガラ5:22)と表現されるもの、これらは自分の内側に実るものですが、人との関係において明らかにされるものです。クリスチャンとして内的にも、対外的にも成長することだと言えます。
それは何かが出来るようになるとか、クリスチャンらしい言葉遣いをするようになるといったことではありません。預言者エゼキエルは「ぶどうの木」を何の役にも立たない木として表現しています(エゼキエル15:1〜5)。ぶどうの木は役に立たなくて投げ捨てられる木です。しかしイエス様はご自分のことをあえてこのぶどうの木にたとえられました。イエス様はまさに十字架の上で神から捨てられたお方です。私たちがこのぶどうの木につながることで成長するとは、キリストの十字架につながることで実を結ぶということです。それはイエス様の十字架で自分も共に死んだのだということを生活のあらゆる領域で認めていくことだと言えます。どこが枝でどこが幹か分からないぶどうの木のように、イエス様の十字架が自分のものになるのです。イエス様の十字架が必要な自分の罪を認め続けていく歩みですから痛みが伴います。その痛みにつけ込んで、神の救いを疑わせてくるサタンのささやきが恐いため、自分の状態を認めることができない弱さが私たちにはあります。しかし、いくらサタンが私たちのことを訴えてきても、それでもイエス様につながりとどまることを諦めないこと。そして死んだはずの自分の古い性質には居座らないで、与えられたキリストの十字架による新しい命で、一歩一歩を歩んでみるということ。クリスチャンの成長とはそういうことです。それをほんの少しでも願うのなら、もっとキリストを信頼して生きるように、もっとキリストにつながって生きるようにと神様はその枝をパチンと剪定されるのです。
■聖霊の働き(3節)
それはつまり、聖霊が私たちを造り変え続けてくださるということでもあります(Uコリ3:18)。聖霊とは三位一体の神様の一つの側面です。創造主なる父なる神様は厳然と天におられますし、子なるキリストもよみがえって天に帰られましたが、今私たちは聖霊なる神を内にお迎えすることで神と共に歩みます。三位一体ですから、聖霊を迎えることはキリストを迎えることと同じです。父をお迎えすることと同じです。
聖霊は私たちをキリストに似た者へと造り変え続けてくださいます。農夫である父なる神が私たちを剪定なさるというのは、聖霊がそれをされるということです。そして聖霊は、キリストが語られたことを以って私たちに迫って来られます(14:26)。15章3節に「あなたがたは、わたしがあなたがたに話した【ことばによって】、もうきよいのです。」とあるとおりです。聖霊は、聖書のみことばによって働かれるお方です。
「聖化」には二つの側面があります。一つは造り変えられ続けていくということ、もう一つは、キリストを信じて聖霊を内に宿した者はすでにきよいということです。この二つは切っても切り離せません。最終的な完成に至るまで、鏡のように主の栄光を反映させながら作り変えられ続けていくわけですが(Uコリ3:18)、聖化には、聖霊を内に宿した者はすでにきよい、みことばの約束が確実であるがゆえに、神のみことばによってすでにきよいという意味もあります。
3節の「きよい」は、2節の「刈り込む」という言葉とよく似た近い言葉のかけ言葉として、言葉遊びのような表現になっています。きよさとは、剪定された状態、刈り込まれた状態と関係があるのです。確かに、聖化と剪定には共通点があります。父なる神の熱心によって聖霊なる神がそれをなさり、そこには痛みが伴います。痛みとは、ただ痛い思いをしたり失敗したということを簡単に肯定するための言い訳ではありません。「みことばによって痛みを覚えるという経験」、キリストが語られたみことば、聖書によって切り取られる、パチリと剪定される、その痛みを通してこそ、私たちは実を結び、キリストに似た者へと変えられていきます。
だから、私たちは聖書を読まなければなりません。そして聖書のことばを心にたくわえ、実際の生活の中で、家で、職場で、学校で、それを思い巡らし、実際にそのように生きてみることが大切です。
私たちが実を結ぶためには、キリストが語られたことによって刈り込まれることが大切なのです。みことばに直面したなら、そのように生きてみるのです。しかしそれができないということにまた直面することでしょう。そこで改めてイエス様の十字架の有り難みを知りますが、しかしそこで終わりません。聖書のみことばによって、聖霊がこんな私を造り変え続けてくださるという奇跡を体験するようになるからです。私たちには、古い性質の上にあぐらをかいてそこから動こうとしないということがないでしょうか。しかし、古い自分はもう死んで、今は新しいいのちで生きているのなら、みことばによって剪定されたその痛みを隠さないで、造りかえて下さる聖霊の約束を信じて、勇気を出して向きを変えましょう。
■「とどまる」(4節)
だからこそ、主は「わたしにとどまりなさい」と言われます。私たちがキリストにとどまる、そしてキリストが私たちの内にとどまられるということは、私たちが神のことばにとどまり、神のことばが私たちの内にとどまるということでもあります(ヨハネ1:1〜3)。この「とどまる」という言葉は「そこにいる」、「居続ける」という日常的な言葉です。イエス様にとどまるとは、そしてイエス様が私たちの内にとどまってくださるとは、日常的なことなのです。私たちがぶどうの木であるイエス様につながるとは、普段の生活の中で起こります。私たちが十字架の意味を受け取り、聖霊によって造り変えられていくという奇跡は日常の中で起こるのです。日曜日の礼拝や学び会、クリスチャンの集会や交わりは大切ですけれども、そのような「非日常」の中で「恵まれた」と言って終わるのではなくて、私たちが普段過ごす場所でこそキリストに「とどまる」ようにと、主は語っておられるのではないでしょうか。ほんの少しでも、教会の外で聖書のことばに触れ続けましょう。聖霊がそのみことばをもって迫り、私たちを剪定してくださいます。
■枝は複数(5節から7節)
5節の前半は一連の文脈の中心点になると思われますが(中心的なテーマが類似する文章で挟み込まれて表現されるという並行法で書かれている)、「あなた【がた】は枝です」と言われていることに注意を向けたいと思います。聖書がいかに信仰の共同体を大切にしているかが分かります。神を信じ、キリストにつながることが、神との一対一の関係であることは当たり前の大前提の話ですが、その上で聖書は信仰の共同体を築き上げるようにと言っています。枝は一本だけではないのです。
教会とは信仰の共同体です。それはキリストのからだと表現されます(エペソ4:16)。色んな部分があって、しかし一つのからだが形成されるように、私とあなたは全く違う存在だけれども、それでも一つのからだを形作るのです。しかしこの多様性のある一致というのが非常に難しいわけです。一致を強調し過ぎれば全体主義になるでしょうし、逆に多様性を強調し過ぎれば、一つのからだの中で痛みが共有されるということがなくなってしまいます。からだを形成する秘訣は「愛のうちに建てられる」ということです(エペソ4:16)。ヨハネの文脈も同じように愛について語っています。
ヨハネ15:7には「何でもほしいものを求めなさい」とありますが、これは次の8節とのつながりを見れば「実」のことです。しかもその後の文脈を見れば、それは「愛」のことだということが分かります(12節)。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも【互いに】愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」互いに愛し合うように、とイエス様は言われました。これが信仰の共同体が成り立つ秘訣、キリストのからだを建て上げる秘訣です。しかしその愛は、すでに私たちが得ていて、今すぐ愛し合うことが可能だという内容のものではありません。成長し続け、キリストのご性質に与っていく中で与えられる「実」なのです。私たちは今こそ成長して実を実らせることを、愛の実を実らせることを祈り求めなければなりません。教会の歩みのために祈っていただきたいと思います。教会のために祈るということこそ、一番大切な共同体への参加方法です。
■父なる神の栄光(8節)
私たちがキリストの弟子として成長することによって父なる神が栄光を受けます。私たちを聖霊による、みことばの示しによって剪定なさる父なる神に、栄光が帰されます。しかし、もし、私たちが実を結ばなければ、愛という実を共同体の中に実らせなければ、この方のご栄光に泥を塗ることになります。今までどれほどの泥を塗ってきたことか。そして今、塗りたくっていることか。これから塗っていくことかと考えると、言葉を失う思いがします。
しかし、私たちのその咎めを、代わりに受け切ってくださった方がおられます。私たちの代わりに、神から完全に断絶された方がおられます。十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれるほどに、完全に神から断絶されたお方がおられるのです。
教会暦によれば、今年は2月22日から「レント」(キリストの受難を覚える期間)に入っています。神から断絶した私たちを救うため、キリストが神から断絶され、私たちに救いの道を開いてくださった十字架の出来事を覚える期間です。十字架にかかられたイエス様が三日目によみがえられ、罪の報酬である死にすら打ち勝ったことを覚えるのがイースター(今年は4月8日)ですが、そのイースターの前の日曜を除いた四十日間がレントです。キリストの復活を覚える前に、今一度キリストの十字架を覚える期間を私たちは過ごしています。キリストは私たちの罪のために、私たちの罪そのものとして十字架に死なれました。そのことを通して、父なる神が栄光をお受けになったのです。私たちにはこの方に栄光を帰すことは出来ませんけれども、しかし、イエス様が十字架にかかることによって父なる神に栄光を帰されました(ピリピ2:6〜11)。
キリストの十字架によって、全ての栄光は父なる神に帰されました。だから私たちは臆することなくキリストにとどまり、みことばによる剪定を受けていきましょう。互いに愛し合う群れとして成長させられ、ここに神の愛をあらわしていこうではありませんか。自分自身に、そしてこの教会に、愛の実が実っていくように、祈り求めて参りましょう。
|
 |
2月19日 |
礼拝メッセージ要約 主題:「神のみわざを記念する12の石]
ヨシュア4:1〜24(三浦真信牧師)
1〜10節
古代の人々は、時間的順序に従って出来事を記すよりは、一つの重大な出来事を様々な角度から繰り返し述べる傾向がありました。この箇所も、ヨルダン川を渡る前後のことが交互に出てきますが、時間の経過よりも、いかにこの出来事が神のなさった不思議であるかを強調しています。この4章でも、ヨルダン川をイスラエルの民たちが渡る時に、神の約束通りに川の水がせきとめられ、かわいた地を全員が渡れたことを大切なこととして繰り返し語っています。
ヨルダン川を渡る時に、そのかわいた地の石を12部族の代表者が一つずつ運んできて、この神のわざを記念するようにと神は命じられました(2〜3節)。自分の子どもたちに、その石の意味を尋ねられた時に、その記念の石を見せながら、神がしてくださったみわざを伝えるようにと命じられています(6〜7節)。また、イスラエルの民たちが、ヨシュアを通して神が語られた通りのことをしたこと(8節)、記念の12の石は、祭司たちが立っていた場所の下にあったものであること(9節)、最後の民たちが渡り終わるまで、主の契約の箱をかついでいた祭司たちが川の真ん中に立っていたこと(10節)などが、さらに記されています。
11〜13節
祭司たちが「主の箱」をかつぎましたが、どこまでも主役は主の臨在の象徴である「主の箱」です(11節)。主ご自身が民たちの先を行き、また最後まで見守ってくださったのです。川を渡り終えると、主の箱が再び先頭を進み、民たちの前列をルベン人、ガド人、マナセの半部族の4万人がヨシュアとの約束通り(1:12〜18)進みました。12部族すべてが、そろってヨルダン川を渡ったのです。
14節
3章7節で神がヨシュアにおっしゃった通りに、主は全イスラエルの見ている前で、神がヨシュアと共におられる事実を示されました。モーセと共におられた神が、ヨシュアと民たちと今も共におられることを目の当たりにしたのです。
15〜18節
主の契約の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川に入った途端に、川の水がせきとめられました。同じように、祭司たちの足の裏がかわいた地に上がったときに、ヨルダン川の水はもとに戻り、以前のように岸いっぱいになったことが新しく記述されています。イスラエルの民たちが川を渡る間だけ水がせきとめられていたことにより、正に神の介入による出来事であったことが明確にされています。
19〜20節
「第1の月の10日」は、太陽暦の3〜4月にあたります。40年前の同じ日に、モーセ率いる民たちが紅海を渡るに先立って、イスラエルが過ぎ越しの小羊を備えた記念すべき日でもあります(出エジプト12:3以降)。
民たちはヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガル(「転がす」の意味)に宿営しました。そして、ヨシュアはヨルダン川からとってきた12の石をギルガルに立てました。
21〜22節
6節では、今いる子供たちが対象でしたが、ここでは後々の子孫にまで、この石の意味を伝えるように神は命じられます。
23節
ヨルダン川の奇跡が、モーセの時代の葦の海(紅海)の奇跡と同じ意味があり、また同じ神がなさったみわざであることが強調されています。モーセの時代にも、エジプト軍に追われるイスラエルの行く手を阻む葦の海が、2つに分かれて民たちはかわいた地を通りました(出エジプト14:10〜31)。同じ神が、主の民を助けるため、そしてご自身のみこころを成し遂げるために、しるしと不思議を行われたのです。
24節
モーセの時代の奇跡も、ヨシュアの時代に起きたヨルダン川の奇跡も、そして記念の12の石も、「地のすべての民が主の御手の強いことを知る」ことにつながります。神は何もできない無能の神ではありません。人間が造った偶像と違い、神が人を造り、全地を造られました。全能の神ですから、神のみこころにかなったことは、100パーセントなしうる力をもっておられるのです。モーセの時代に葦の海の奇跡を行われたのも、不信仰によりつぶやく民たちに神の力を知らせるためでした(詩篇106:6〜12)。
また「あなたがたの神、主を恐れるため」の奇跡でもありました。奴隷が主人に、ビクビクしながら恐れるようなものではなく、神の偉大さと尊厳を心から認めて、主に信頼してついていこうとする恐れです。
ヨルダン川から運んだ12の石は、それ自体に特別な力があるわけではありません。あくまで、神のみわざを思い起こし、神の強さを知り、神を恐れ崇めて信頼してついていくためにありました。
主のなさる不思議は、難なく渡れる季節のヨルダン川では現されませんでした。水があまりない容易に渡れる時期ではなく、川の水が岸いっぱいにあふれる刈り入れ期のヨルダン川だったからこそ、主の栄光が現れたのです。主のなさる奇跡は、私たちが行きづまりきっている時、とても自分の力では渡れないと思うほどに水があふれている時に起きます。
今とても自分の力では渡れない、乗り越えられないヨルダン川のような状況があるでしょうか?あるいは前には紅海、うしろには追い迫るエジプト軍というような八方ふさがりの出来事がありますか?今が主の御手の強いことを知らされる大切な時であることを心に留めましょう。正にその状況で、主の不思議がなされるのです。
|
 |
2月12日 |
礼拝メッセージ要約 主題:「踏み出した時に開かれる道]
ヨシュア3:6〜17(三浦真信牧師)
6節
「あす主があなたがたのうちで不思議を行われる」(5節)と言われた翌日、ヨシュアは祭司たちに契約の箱をかつぎ、民の先頭に立つように命じます。
7節
主は、「イスラエル全体の見ている前で」、これから不思議(奇跡)を行われます。それは、「神がモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいること」を、民たちが知るためだったのです。モーセが死んだからといって、神がおられなくなったわけではありません。モーセを遣わされた神(出エジプト3:11〜12)が、今ヨシュアとともにおられ、イスラエルを約束の地に導こうとしておられることを民たちに示すために、神はイスラエル全体の見ている前で「不思議」を行うことをヨシュアに仰せられました。
8〜9節
神はヨシュアに、祭司たちへの命令を伝え、ヨシュアは民たちに、「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい」と言いました。主がイスラエルにどのようなご計画をもち、これからどのようなことをなさるかを語っておられるので、よく主のことばを聞くようにという命令です。神が語られた通りのことがこれから起きるので、それが実際に起きた時に、主の仰ったとおりであることを知るため、今神のことばをしっかり聞くようにと民たちを呼び寄せたのです。
10節
ヨシュアは、「生ける神があなたがたのうちにおられて、先住民たちを必ず追い払われること」を伝えました。ここに出てくる7つの民族は、度々聖書の中に出てきます。カナン人、エモリ人をはじめ、しっかりとした国を築いていた民族です。生ける神が、そのようにしてくださるから、進んで行くようにという約束です。
11〜13節
「全地の主」と繰り返しています。これまで来た荒野においても、これから入る新しい地においても、神はどの地にあっても、「生ける全地の主」です。その全地の主の契約の箱を、祭司たちはかついで先頭を進みます。そして「祭司たちの足の裏がヨルダン川の水にとどまると、上流の水がせきとめられる」と神はヨシュアを通して言われたのです。そのことを通して、神が必ず先住民たちを追い払われる(10節)ことを証明してくださるのです。
神のなさる不思議は、ただ驚かせたり、一時的に神を崇めさせるためのものではなく、更にその先にある神の約束を信じて前進していくためのものです。イスラエルにとっては、ヨルダン川での奇跡により、更に新しい地を神が約束通り与えてくださることを確信させるためのものでした。
神は、今も生きて働かれ、私たちに「不思議」を行われます。それも、先にある「天の御国を与える」という約束を信じて前進していくためなのです。キリストを信じる者には、天におけるカナンの地が約束されています。そのことを更に確信をもっていけるように、神は地上においても神の不思議を私たちに見せてくださるのです。御国を目指して神に従っていこうとする時に、カナンの地の先住民のようにサタンが様々なものを用いて妨害してきます。でもその妨害するサタンの働きさえも、神は阻止して必ず追い払ってくださるのです。
14〜15節
いよいよヨルダン川を渡るためにイスラエルは出発します。そしてヨルダン川に来て、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が水際に浸った時に、主の不思議が起きました。ヨルダン川は、刈り入れの間中は、岸いっぱいに水があふれます。大麦・小麦の刈り入れの季節は春で、その頃ヘルモン山の雪解け水と春の雨で、ヨルダン川は通常よりも川幅も広く深くなり、流れも激しくなります。子供やお年寄りもいる大群衆がふつうに渡れる時期ではありません。しかし、そのような激流を目の前にしながらも、主の契約をかついだ祭司たちがヨルダン川に一歩足を踏み入れた時に、主の奇跡が起きたのです。
16〜17節
ヨルダン川の上流から流れる水が、はるかかなたのアダムの町(エリコの北約29キロ)でせきをなして立ち、塩の海の方に流れ下る水は完全にせきとめられました。主が前日から直前まで語られた通りのことが起きたのです。主の契約の箱をかついだ祭司たちが、ヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかり立っている間に、イスラエルの民たち全員が水のないかわいた地を通り、無事にヨルダン川を渡り終えることができました。
主の契約の箱をかついだ祭司たちが、ヨルダン川に足を踏み入れる直前までは、水はあふれるばかりに勢いよく流れていたのです。その現実だけを見たら、とても足を踏み入れる気にはなれなかったでしょう。しかし先に繰り返し神のことばが語られていたので、主の約束と命令を信じて一歩踏み出しました。主の言葉に従って一歩踏み出した時に、主の奇跡とみことばの事実が起きていったのです。
この出来事を通して、み言葉を信じるとはどのようなことかを教えられます。主がいくら聖書を通してみこころを語られても、それをただ眺めているだけでは何も起こりません。みことばを信じて一歩踏み出した時に、その通りのことを神はしてくださいます。神のことばは、頭でお勉強するものでも、良い言葉だと鑑賞するものでもありません。信じてその通り踏み出していくものです。自分の思いや人間の常識とは違っていても、全地の主なる神がそのように仰るからと、信じて踏み出してみる時に、本当に、みことば通りであることが身をもってわかるのです。ただ聞いているだけでは何も起こりません。聞いたら信じて実行してみるのです(ヤコブ1:21〜22)。その時に、神のことばの真実と、神のなさる不思議を体験することができます。神のことばを聞いたら、信じてその通り一歩踏み出してみましょう。信じて踏み出すなら、あとは主ご自身が運んでくださいます。全地の主は、今も私たちの間で不思議をなしてくださいます。
|
 |
2月5日 |
礼拝メッセージ要約 主題:「今まで通ったことがない道]
ヨシュア2:22〜3:5(三浦真信牧師)
22〜24節
エリコの町を偵察に行った二人の斥候は、ラハブの提案(16節)通り、ヨルダン川とは反対の山地に行き、3日間恐らく洞窟に身を隠し、追っ手があきらめた頃に、山からおりてヨルダン川を渡り、ヨシュアと民のいるシティムに戻ってきました。
二人の斥候は、エリコの町で経験したことをことごとく指導者のヨシュアに話します。
二人の報告は、とても前向きな内容でした。「主があの地をことごとく私たちの手に渡されました」と、信仰によって神のことばが実現することを確信しています。モーセの時代に偵察に行った者たちは、悲観的な報告をして民たちの心をくじき、民たちも恐れをなして尻込みしてしまい、結局荒野に戻ることになりました(民数記13〜14章)。
今回は、エリコの住民の方が、イスラエルに対して震えおののいています。荒野の生活で、イスラエルの民たちに神はさらに信仰の訓練を与えてくださり、またその間にエリコの住民たちも神がイスラエルになされたみわざを伝え聞いて、神への恐れをもちました。正に時が熟して、いよいよイスラエルは新しい地に踏み出していくことになるのです。
3章1節
そのような神の備えの期間を経て、ヨシュア率いるイスラエルの民たちはシティムを出発し、ヨルダンの川岸までやってきます。
2〜3節
川岸で宿泊して3日経ってから、つかさ(指揮官)たちは民たちに、「主の契約の箱」のうしろを進むように命じます。「主の契約の箱」は、神殿の縮小物のようなもので、モーセに与えられた十戒を刻んだ二枚の石が納められています(出エジプト25:10〜22)。十戒は、神との契約の言葉であり、神のみこころを示す言葉でした。つまり、神殿のように神の臨在を象徴し、神のことばが納められている主の契約の箱のうしろを進むということは、主と主のことばに従っていくことになるのです。荒野においては、雲の柱と火の柱によって、神は民たちの前を進まれました(出エジプト13:21〜22)。今回は、それが主の契約の箱になったのです。いずれにしても、順序は同じです。まず主ご自身が前を進まれ、民たちはその後を進んでいくのです(申命記31:8)。
4節
しかも主の契約の箱と民たちの間には、約2000キュビト(約900メートル)の距離を置かなければなりませんでした。それは、神への畏敬の念を民たちがもつと同時に、戦いの象徴である軍隊や兵士ではなく、主ご自身が先立つ行進であることを、他の民族にも示すことになりました。
民たちは、「今まで通ったことがない道」を進んで行きます。神に行くべき道を知らせていただかなければ、迷ったり道を誤ってしまいます。今までに通ったことのある道や、体験したことがある出来事なら、多少は自分の経験値で進めるかもしれません。しかし全く初めての道は、手探り状態です。何が正しいか、どうすることが一番よいのかも見当がつかないのです。
だから、民たちは「自分にはこの道はわからない」と認めて、神のうしろをついていくのです。自分勝手に主の契約の箱(神ご自身)の前を飛び出していくと、とんでもない道に迷い込んでしまうのです。わからないまま、神が導かれる方についていけばよいのです。信仰の戦いは、いつも新しい道なので、神が先立ってくださらなければ戦えません。人間の知恵や力では、行き詰ってしまうのです。ですから、すべてをご存知で導いてくださる主の後をついていけばよいのです。
5節
主は「あす、あなたがたのうちで不思議を行う」と、ヨシュアに語られました。ヨシュアは、その前に「あなたがたの身をきよめなさい」と民たちに命じます。モーセに十戒が与えられる前に命じられた外的なきよめ(出エジプト19:10〜15)以上に、不信仰や高ぶりを悔い改めて全面的に神に信頼していく内的きよめが求められたことでしょう。
ヨルダン川を渡るとき、それは主の「不思議」を体験する時でもあるのです。旧約聖書では、しばしば神のなさる奇跡を、「不思議」と表現しています。モーセの時代にも、たくさんの不思議を民たちは経験しました。しかしその時代の人々は死に、新しい世代になって、彼らもまた直にこの「不思議」を体験することになるのです。「モーセの時代にこのような不思議があったらしい」ではなく、「確かに主は今生きている私たちに不思議をなされた」という証しを神は与えてくださるのです。
だから、神がなさる不思議をしっかり受け留めるために、身をきよめ、心を整えるのです。神が不思議をなされた時に、それが偶然でもなく人の力でもなく、神ご自身のみわざであることをはっきり確信して神を崇めるために、主の前にへりくだって、心の高ぶりや不信仰を取り除いていただくのです。神がどのようにして、ヨルダン川を渡らせ
てくださり、新しい地に導かれるかを、信仰の目をもってしっかり見ることができるように、霊の目を開いていただくのです。
今まで通ったことがない道を、しばしば私たちは通ることになります。イスラエルにとっては、ヨルダン川を渡ることは未知の世界に入ることでした。今まで体験したことのないことに遭遇していくのです。だからこそ、神ご自身に先立っていただかなければ、進めないのです。でもその時に、神は「不思議」を行って助けてくださるのです。その神のみわざを受け取るために、心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼らず、行く所どこにおいても主を認めていきましょう。そうすれば、「主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5〜6)のです。神は今も、一人一人がヨルダン川を渡る時に共にいてくださり、不思議をもって助けてくださる主なのです。
|
 |