(2018年1月)

 ・ 1月 7日
 




 1月7日
新年聖日礼拝メッセージ要約 主題:「神の寛容を示す見本〜罪人のための救い(1)〜」

           テモテへの手紙第一1:12~17 三浦真信牧師

 2018年のみことばは、『「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです』(Ⅰテモテ1:15a)です。

 テーマは、「罪人のための救い」で目標は、

① 罪を認めてキリストを求めよう

 自分の罪深さを知った者たちが、キリストの救いをそのまま受け入れていきました。自分の義を言い立てるユダヤ教指導者たちは、自分の義(正しさ)で神の前に立てると言い張って、キリストを拒否していきました(ローマ10:2~3)。自分の心の中を直視するなら、だれ一人「私には罪はない」と言い切れる人はいません(マルコ7:20~23)。キリストは、罪人のための救い主ですから、自分の状態がどうであってもキリストの元に行くなら救いがあります。自分の義を主張するのを止めて、キリストの義で生きましょう。自分の罪を認めて、キリストの救いを日々求めましょう。

② キリストに罪赦された者として交わろう

 キリストのからだなる教会は、キリストによって罪赦された者たちの共同体です。ですから立派ぶる必要はありません(ガラテヤ6:3~4)。キリストがいてくださらなければどうしようもない者と認めた者たちの集まりです。ただキリストのあわれみで罪赦されただけで、今も罪の残骸(ざんがい)を持ちながらキリストの十字架の贖(あがな)いを待ち望んでいる私たちです。私たちの誇りはキリストだけです。ですから罪人の交わりをしましょう。

③ 罪人を救ってくださるキリストを伝えよう

 「教会は立派できよらかな人たちの集まり…」ではありません。罪から救ってほしいと願った者たちが、救い主に出会ってキリストの神をほめたたえる共同体です。キリストを見上げないで自分を見れば幻滅するのです。どのような罪人も救われるという見本(Ⅰテモテ1:16)となってキリストを伝えましょう。キリストは罪人のための救い主です。

 パウロが、どのような思いで今年のみことばでもあるⅠテモテ1:15を語ったかを、その前後の聖書個所と併せて受け取りましょう。


<12節>

 パウロは、迫害下でも大胆に福音を語り、様々な困難を乗り越えて力強い働きをしました。しかしそれは人間パウロが強かったからでは決してありません。弱く恐れおののくしかないパウロ(Ⅰコリント2:3)をキリストが強くしてくださったのです。キリストが力を与えてくださったのです。パウロは、決して自分の力ではなく、キリストの力が彼の弱さの中に働いてくださった(Ⅱコリント12:9~10)ことを心から認めて、「私を強くしてくださる主キリスト・イエスに感謝をささげ」たのです。

 パウロは、今エペソで牧会している若いテモテにこの手紙を送っています。テモテは、教会の困難な実情の中で、気落ちしていたようです。パウロはテモテに、自分の弱さではなく、偉大なキリストに目を注ぐように促しています。

 パウロが感謝をささげるキリストは、パウロを福音宣教の「務めに任命して、忠実な者と認めて」くださいました(使徒9:15)。パウロが何一つ忠実を示さないうちに、神はパウロを忠実な者と認めてくださったのです。その恵みを思うと、キリストに感謝せずにはいられませんでした。


<13節>

 パウロが、かつていかにキリストに不忠実であったかが記されています。パウロは以前は、「神をけがす(冒涜する)者」でした。熱心なパリサイ派律法学者であったパウロ(ピリピ3:5)が、直接神を冒涜しけがすようなことはしなかったでしょう。神が遣わしたキリストを否定し迫害したことを指しています。また「迫害する者、暴力をふるう者」でした。かつてはクリスチャンを迫害し、殺害しようとしていたのです。神に忠実であるどころか、真っ向から神に敵対する者でした。そのようなパウロを、キリストはとらえてくださったのです。そして神が先にパウロを忠実な者と認めて、この福音の務めに任命してくださいました。まだキリストを「信じていないときに知らないでしたこと」なので、あわれみを受けたのです。不忠実な者をあえて忠実な者と認めて、キリストは私たちを召してくださっています。キリストの力(12節)とあわれみが臨んだから、パウロはこの働きを続けているのです。若いテモテが、牧会の困難の中で「自分は牧会者としてふさわしくない」と思う時にも、キリストが忠実な者と認めて力とあわれみを注いでいてくださることを思い起こすように、パウロは自分自身の証しをしています。


<14節>

 以前はキリストを信じていなかった(13節)パウロ、また「神をけがし、暴力をふるう者」(13節)だったパウロに、「信仰」と「愛」がキリストの恵みとともに満ち溢れるようになりました。「キリストの恵み」が、かつてのパウロになかったもの(信仰と愛)を、いよいよ増し加えたのです。どれほど足りなくても、キリストの恵みが臨むときには、必要なものを神が増し加えてくださるから大丈夫です。「信仰」も「愛」も、私たちの中からは出てきません。キリストの恵みによって、満ち溢れていくのです。


<15節>

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」は、イエスが語った福音の根本です(マルコの福音書2:17、ルカの福音書19:10など)。このことは、パウロ自身も「まことであり、そのまま受け入れるに値する」と確信をもって伝えています。それはパウロが「私はその罪人のかしらです」と自分自身のこととして告白していることからもわかります。ここの「私は」が原文では強調されています。「私パウロこそ、罪人のかしらとして、誰よりもその救いの恵みを味わっているのです」と告白しているのです。

 しかも現在形が使われています。「かつては罪人のかしらでした」ではなく、「今も罪人のかしらです」なのです。キリストの恵みによって確かに罪は赦されています。でも同時にパウロは今も「罪人のかしら」として、自分の罪深さを自覚しています。今もいよいよキリストの恵みが必要な罪人であると自覚しているのです。だからこそ、キリストの恵みに感謝し、神への賛美があるのです。もしも自分の立派さや正しさを認められて救われたなら、私たちは神にそれほど感謝したり賛美することができなかったでしょう。でもこの救いは、私の側の何にもよらない、ただ神の一方的な恵みでありあわれみなので、神への感謝があるだけなのです。


<16節>

 罪人のかしらであるパウロが救われたことは、神のあわれみを示す見本となりました。キリストのあわれみが、どのような罪人にも届くことの見本となったのです。救いは、ただキリストを信じるだけです。「彼(キリスト)を信じて永遠のいのちを得ようとしている」人なら、どんな罪人も神のあわれみを受けることができるのです。それが福音です。このような「この上もない寛容」を、神はまず罪人のかしらと告白するパウロに示してくださったのです。そして私たち一人ひとりも、自分の罪や弱さを日々告白しつつも、なお神の救いを感謝しているなら、それは神の「この上ない寛容」を示すことになります。

 私たちが、自分の弱さ、愚かさ、罪深さを告白するのは、そのような者にも神の恵みが届くという証しです。私の弱さによって、神のあわれみのすごさが証しされるのです。そのために、私たちは交わりで自分の弱さを差し出します。それはキリストの恵みが証しされ、キリストだけが崇められるためです。


<17節>

 自分のような罪人を救ってくださった神の永遠性、神の主権を覚えて、パウロは主をほめたたえます。神の恵みと、その深いご計画を手紙で書いているうちに、改めて神への賛美が溢れてきたのでしょう。「誉れと栄え」を受けるべきお方が、あえて罪人の救い主となってくださいました。

 栄光の神が、滅びに向かっていた私たちを救い出すために、限りなく身を低くされて、人となりました。そうまでして私たちを救おうとしてくださった神の愛を知れば知るほど、神を愛し神に従う者になりたいという願いが生まれてきます。

 パウロは、自分の罪を知れば知るほど、神のあわれみの大きさを知りました。それがパウロの働きの原動力でした。気落ちする若いテモテに、パウロはただ神のあわれみと神の力の偉大さを伝え、テモテの弱さの場所にもキリストが働いてくださることを信じていくように励ましています。

 神はパウロを通して、神の「この上ない寛容」と「あわれみ」を示してくださいました。同じように私たち一人ひとりが罪の中から救われることで、神の寛容を私たちを通して示そうとしておられるのです。これから「キリストを信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本」として、私たち一人ひとりを神は用いてくださるのです。ですから、自分自身は立派でなくても大丈夫です。私たちが一罪人となって砕かれていく時に、神の栄光が現れます。弱さの中に働くキリストをたたえ、キリストを伝えましょう。
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